人は自分よりも醜いものを見下す。人はいつでも自分が上に立ちたい生き物なのだから。
その人間の特性をよく表しているのが美しさだろう。美しいというだけで崇められることもある。その中に醜い生き物が住み着いていたとしても。
「汚ねえな。」
「仕方ないよ。これでも努力はしているんだから。」
アンさんはいつも意地悪だ。頭に思い浮かんだことにすぐに吐き出してしまう。たいていの人間には少しばかりの防波堤が備わっているものだが、アンさんにはそれがない。
けっして、悪いう人物というわけでもないが、たびたびアンさんの無意識の言葉に傷つけられる。
アンさんが言ったのは、僕の肌のことだ。
世界に2つの人種が存在している。肌の綺麗な人とそうでないものだ。
残念ながら、僕は後者に属する人間だ。肌が汚いからという理由で人を判断してはいけない。
しかし、世界は残酷なのだ。
どんなに素晴らしい人格を持っていたとしても、人は美しい人間を選ぶ。なんて汚い世界なのだろう。
「風呂入ってちゃんと洗えよ。」
「ちゃんと洗ってるよ!朝にもシャワー浴びてるし。」
「じゃあ、なんでそんな汚ねえんだよ。俺なんか夜しか入ってねえぞ。でも、きれいじゃねえか。」
「それは体質じゃない? 肌の綺麗は遺伝で決まるんだってよ。」
「遺伝?なんだそれw 」
「遺伝子によって人間の特性の大部分が決まってしまうんだって。」
「ふーん。にしても汚ねえな。」
アンさんは難しい話になると話をそらす。悪い人間ではない。しかし、イライラする。
「アンさんにまた言われたよ。汚いって。」
「放っておけば?あんな単細胞。」
彼女は世界で一人僕のことを理解し、受け止め、世界にはまだ希望があることを教えてくれる唯一の存在だ。
「あんたの肌はい・で・ん。何も気にする事はないわ。もし、あんたがその肌を否定するなら、お母さんとお父さんも否定することになるわよ。」
彼女の意見はいつも僕をハッとさせる。僕は自分のことしか考えていなかった。こんな肌なら死んでしまいたいと言う気持ちは、両親に死ねと言っているのと同義だ。
「そこまで気になるなら、知り合いに聞いてみようか?皮膚科やってるんだって。お父さんが。」
「皮膚科に行ったら治るかな?」
「それは分からないわ。遺伝の力は強力だから。でも、あんたの問題を解決するヒントになるかもしれない。」
そして、彼女は「この世に絶対はない」と付け加えた。
人は誰でも社会に属する。学生、サラリーマン、警察官、もしくはそんな社会を拒否した人だ。僕は一日という制約を課し、社会を拒否した。一日にしたのはそれ以上進んでしまったらいけない気がしたからだ。その先を見てしまったら引き返せない気もした。そんな自分に少し嫌気がする。僕はどこにもいけないのかと。。無敵な人間にはほど遠い。
会社を休んだ僕は彼女が言っていた皮膚科に向かった。小田急沿線にあるその街は僕が高校時代を過ごした懐かしい街だ。久しぶりに降り立つと懐かしさと同時に寂しさがこみ上げてきた。年を重ねるとはこういうことなのかもしれない。
「貴子のお知り合いで?」
女医はそう言った。
「直接的な知り合いではないのですが、まあ間接的な知り合いということになるかもしれません。。」
「間接的な?」
「直接的な友人ではないということです。」
「はー」
「彼女の友人が貴子さんです。僕は貴子さんの間接的な知り合いということです。」
「はー。なんだか難しい表現をするのね。」
「お医者様にはそうしないといけない気がしするんです。」
「うーん。あまり良くないわね。」
「やっぱり遺伝ですか?」
「それも少しはあるかもしれないわね。少し、脂が多いようね。」
「諦めろと?」
「そうは言ってないわ。遺伝による影響は0ではないけど、努力によって改善できることもあるのよ。」
「具体的にはどうすればいいのでしょうか?」
「そうね。まずは石鹸を使いなさい。100円くらいの石鹸でいいからそれで洗ってみなさい。バシャバシャ洗うのよ。」
「石鹸?な、なんでですか?」
「今ボディーソープでしょ?」
「は、はい。」
「石鹸は肌に残りにくいのよ。石鹸は肌に触れると効力を失くすのよ。反対にボディーソープは肌に触れてもいつまでもあなたを攻撃し続けるわ。女の執念のようなものね。気をつけて。」
「石鹸にすればその執念を取りはらえる?」
「そうね。石鹸の執念も0ではないの。でも、その執念は19歳の女の子なの。あなたも経験を積めば分かってくるはずよ。」
女医が言ったことはなんとなく分かる気がする。若い女性の切り替えの早さは37歳のそれとは違う。「好きの翌日は無関心」という教訓が生きた言葉を思い出す。その日の「好き」を信用してはいけない。女医の説明は半分分からなかったが、従うしかない。
翌日から石鹸で洗うことにした。
「せっけん?」
「そうなんだ。石鹸は19歳の女の子なんだっって」
「19歳の女の子? よく分からないけど先生がそういうなら間違い無いかもね。」
「これからは石鹸にしてみるよ。」
それからは石鹸生活が続いた。顔、体。頭もだ。髪の毛を石鹸で洗うなんて初めてのことだったから躊躇した。洗い上がりもキシキシする。なんだか、まっとうに生きる人間がする行為では無い気もする。でも、あの女医を信じたい。そして、信じるしかない。僕は来る日も来る日も石鹸でバシャバシャと体を洗い続けた。石鹸が壁に飛び散ろうがバシャバシャ洗った。
あれから7ヶ月経つ。
僕の肌の変化を見ていた彼女も石鹸で体を洗い始めた。
「シャボン玉石鹸ないよ!帰りに買ってきて!」
今ではシャボン玉石鹸を買いに行くのは僕の務めになっている。体だけではない。食器を洗うのだって、洗濯だってすべてがシャボン玉石鹸になった。彼女のお気に入りは「スノール」だ。粉状になっているので何かと使いやすいらしい。
スノールが切れた時には彼女の怒りは頂点に達する。僕は普段からスノールの在庫があるかチェックしている。
スノールがないときの彼女は怒り狂ってしまう。聖母マリアのようにすべてを包み込んでくれる彼女の裏の一面だ。しかし、彼女を嫌いになることは僕にはできない。スノールという商品が素晴らしいからだ。そして、人に欠点の1つや2つある。多めにみよう。
アンさんは肌のことを言わなくなった。どうして綺麗になったのか?ということも聞かれなかった。「知識がなければ疑問も浮かばない」とデイビット・ボボルバーは言った。まったくだ。アンさんになるかデイビット・ボボルバーになるかは人それぞれだ。僕はボボルバーになりたい。
僕に対する「弱み」を見つけることができなくなったアンさんは、今度は僕のおでこの広さについて言うようになった。アンさんは悪い人では無い。でも、防波堤がない。それだけだ。それに人は常に弱い人間を探し出し上に立ちたい生き物だ。そう考えたら少しは我慢できる気がする。
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